さて、ずっと書きたかったテーマについて書きます。
最近では、
黒柳徹子さんなど有名人が
発達障害の一部であるAD/HD(注意欠陥・多動性障害)だった、ということをお話されたり、あの国民的名著
「窓ぎわのトットちゃん」に描かれたトットちゃんのちいさい頃は典型的AD/HD(注意欠陥・多動性障害)のあり方だ、というようなことが言われたり、
トム・クルーズが文字が読めない
失読症(
学習障害・LDの一種)であったと告白するなどにより、徐々に
発達障害と言われるものへの理解も広まってきたようにも思いますが、でもまだ多くの人にとっては「なんのことじゃらホイ」という感じでもあるように思うのです。
ただ、そもそも
発達障害って何?という方も多いと思いますので、これは政府広報サイトから引用したいと思います。
発達障害は、脳機能の発達が関係する生まれつきの障害です。発達障害がある人は、コミュニケーションや対人関係をつくるのが苦手です。また、その行動や態度は「自分勝手」とか「変わった人」「困った人」と誤解され、敬遠されることも少なくありません。それが、親のしつけや教育の問題ではなく、脳機能の障害によるものだと理解すれば、周囲の人の接し方も変わってくるのではないでしょうか。
大きく分けますと、
発達障害というのがまずありまして、これは脳機能の発達に関する生まれつきの障害(という言い方が適切かについては適切ではないとわたしは思うのですが、便宜上使います)です。
■同時にいくつかの特徴が併発することもある
また、
発達障害はいくつかが併発することも多いと言われます。
例えば、以下のような記事に、
アスペルガーと
ADHDの違いが書かれていますので、ご興味あれば参照してください。
他人の気持ちを理解できないため、失礼な態度や発言をしてしまいます。その結果相手を怒らせてしまいます。
遅刻やミスが多かったりして、他人を怒らせてしまいます。しかし、他人の気持ちをくみ取る力はあります。また、対人スキルが低いものの、人と親しくしたいという願望はあります。
作業の一部に囚われ、そこに集中するあまり、作業全体が遅れてしまいがちです。状況を把握することが苦手です。
ケアレスミスが多かったり、用事を先送りにしてしまいます。締切自体を忘れてしまうことさえあります。
アスペルガーの人は放っておいたら何時間でも作業するということがあります。しかしそれは、好きだから夢中でやっているのではなく、こだわりが強くなってしまって抜け出すことができないでいるのです。繰り返すことによって変な安心を感じてしまっている状態です。
興味のあることに集中します。過集中で疲れてしまうこともあります。
via:
統合失調型パーソナリティ障害-アスペルガーと間違いやすい病気
こうして見ると、どちらの性質もあるな、と思い当たる知人がいたりする方も珍しくはないと思います。
わたしも専門家ではないですし、ミスがあるかもしれませんが、まずはこの引用で、大体の性質を把握していただければと思います。
さて、長く前置きしましたが、本稿ではそれらの発達障害の中でも、アスペルガーについて特に書いてみたいと考えています。
アスペルガーと言われる性質の特徴と言われるものを挙げるとかなりあります。
例えばこんな具合に..
* あいまいな指示を理解できない
* 鵜呑みにしてしまう
* 言葉の裏の意味を理解できない
* 皮肉を理解できない
* 名前を呼ばれないと自分だと気づかない
* 騙されやすい
* 些細な事で争いになる
* 人を批判すると止まらなくなる
* 冗談が通じない
* 退屈に耐えられない
* 夢中になると話し続けてしまう
* 興味のないことは絶対にしたがらない
* スケジュール管理ができない
* 一度に2つのことをできない
* お金の管理ができない
* ガヤガヤとした環境が苦手
* 急な変更にうまく対応できない
* 白黒ハッキリつけたがる
* 同音異義語を理解できない
* 部分に注目し、全体が見られない
* なんでも悲観的に思い込む
* 先が見えない事に不安になりすぎる
* 片付けができない
* 「オープンクエスチョン」でフリーズする
* 指示がないと動けない
* 友人を作る気がない
* びっくりしやすい
* 暗黙のルールがわからない
* 服装を気にしない
* 傷つきやすい
* 他人を傷つけることを平気で言う
via:http://asperger.nerim.info/
大きく大体で分けると、以下の3つくらいにわけられるかもしれません。
1、対人関係が苦手
2、「言外に込められたもの」「曖昧さ」がわからない
3、限定された興味・こだわりと興味対象への集中力
■この記事を書きたいと思ったきっかけ
元々、この記事を書きたい、書こうと思った一番大きなきっかけは、身近に
アスペルガーと思われる人がいたことです。
そして、彼と付き合う内に、彼のことがよく理解されていないゆえに、彼もまわりの人もハッピーではない情況が度々生まれてしまっているかもしれないと思い、理解を促進することによって、みんなが今よりハッピーになったらいいな、と思ったからです。
最初彼とあったとき、わたしは全く彼がどういう人かわかってなかったので、彼の対応や発言に怒りすら感じました。
以後の付き合いの中でも、彼が
アスペルガーなんだろうな、と思い
アスペルガーについて色々勉強するまで、怒りを覚えることが多かったのです。
なぜなら、
アスペルガーの人の特徴に「普通なら言外に含めたりしてあまり言わないところまではっきり言う」ですとか、
「常識的に考えると社会的な付き合いを考えてそこまで言わないことも正直に言う」とか、「普通ならしつこいと思われるくらい、情況に関しての詳細を
言い過ぎる」などがあるのですが、それは当初、とても「配慮がない」とか「言い過ぎ」とか「しつこい」と感じられたのです。
例えば嗅覚があるから匂いがわかるように、痛覚があるので傷をしたことに気づくように、わたしたちは感覚があるので、それを感じることができます。
でも、その感覚がなかったとしたら、感じることはできません。決して悪い意味でいうのではないのですが、例えば彼が言外の意味を理解しないと言って責めるのは、目がない人に「なぜお前は見ないのだ」というのと同じようなものなのじゃないかと、わたしは彼と付き合い、勉強することで理解していきました。
■アスペルガーの人と一緒に生きていくための提言
一般的な会社で働く
アスペルガーの人には、IQが髙い人が多いかと思われます。
なので、ある視点から見ると、十全かそれ以上に職務を全うできるため、彼が特にコミュニケーションや計画性において拙いと、「さぼっている」とか「努力をしてなくて」そうなっているように見えてしまうことも多いかと思うのです。これが、ある種の不幸の原因に(本人的にも周りの人的にも)なってしまうことがあるのではとわたしは見ています。
しかし反面
アスペルガーの人は、
高機能自閉症と言われるくらいですから、IQは一般以上だったり髙いことも多いので、ある範囲の情報処理能力が超人じみていたり、こだわっている部分の研究の深度が凄まじく深かったり、人が自分を守るために正直に言わないことを正直に言ったり、という美点や能力があります。
特異な能力の髙い部分と、反面特にコミュニケーション面での一般と違うところ。
それを活かして
共生できたらいいなあと思うようになりました。
先述のとおり、こういう
アスペルガーとかの性格は、元々そのようになっているものであり、「治す」とか言う種類のものではないと思われます。
なので、その性格・性質を理解して、いいところが活き、一般的には問題になってしまうような部分は「そういうもの」としてどうすれば問題にならないか周りが考えて一緒に生きていくのがいいのではないか、ということです。
わたしは昔、親による聞きかじった理解から「
自閉症じゃないか」と言われていた頃がありました。
自閉症では全くなかったと思いますが、ちょっと並以上に人前で話したり、意見を言うことができなかったのです。
内には秘めたる強い思いがありましたが、それを人前で表現することができませんでした。
またプレッシャーが高まると、人前から逃げてしまうこともありました。
おかげで、へんてこな民間療法にも通わされたことがあり、加持祈祷のごときそのセラピーとやらを体験しながら、「この大人たちは何言ってるんだろう」と思ってました。
でも、わたしは大人にそう言われても「わたしは、人並み以上に自意識が強くて恥ずかしがり屋なだけで、たぶんそういうもの(
自閉症)ではない」と思ってました。
なので、中学校以降は努力をして性格を変えました。
人並み以上の努力だったと思いますが、あえて「変人である」という性格的な外皮を作り出すことによって、「外皮の中で人並み以上に物事を言ったり動いたりすることができる」という個性を作り出し、そのアウトプットにより周りの反応が変わったこと(大人しいしゃべれない奴から、変なユニークな奴へ)を利用して「自分は人々とまっとうに渡り合っていける個性をもって世界で生きていける」というふうに自分に自信をもたせてやるレッスンをしました。
その努力の甲斐があってか、いまわたしは、恐らく平均よりも大勢の前でのスピーチや、見知らぬ人の前でのプレゼンが客観的には得意と言われるタイプといっていいかと思います。
こういう、努力で変えられる種類の性質は、(この障害という言い方の是非はともあれ)いわゆる「
発達障害」と言われるものではないかと思います。
発達障害の症状は、例えばダイヤモンドが銅には変わらない、といった種類の、変わりようのないそのものがもつ特性なのだと思うのです。
ダイヤモンドに対して、お前はなぜ色がないのかといっても仕方ないし、
銅に対してなぜお前はこれこれの条件下で腐食するのか、といっても仕方ないでしょう。
ひなぎくになぜお前はバラの芳香をもたないのかといっても仕方ないし、
バラになぜお前は
ひなぎくのような花弁の数をもたないのかといっても仕方ない。
なぜ君は人の心を解さないのか、といったりしても仕方ないことだとわたしは思うのです。
では、どうすれば良いのでしょうか?
■すごいところがいっぱいある。苦手なところは理解してあげればいい。
少なくとも、私見では、例えば
ダウン症の人と触れたとき、「なんてこの人は心が綺麗なんだろう」とわたしはいつも思うのです。
知能的には現存の解釈では低い場合が多くても、
ダウン症の人は本当に天使のように心が綺麗な人が多いと思います。
そして粘り強いので、例えば工芸品の制作技術などを習得して、ライン作業で工芸品を作るような仕事であればとても素晴らしい仕事をするのではないかと思うのです。
こだわった分野における集中力や特異な能力については凡人が追いつくのは難しいレベルでできる人が多いように思います。
彼らのそういった能力がとても活きる環境は絶対にあるはずです。
例えばわたしが知り合った
アスペルガーの子も、その特異能力である分野についてエキスパートと言われる能力を発揮しています。
ただ、その彼が、ある分野の研究的なことにエキスパートであるからといって、では例えば彼にマネジメントであったり、対外コミュニケーション能力、スケジュール調整能力を多く必要とするタスクを任せるべきかといったら、そうではないと思うのです。
わたしはプロではないので、わたしの意見は、いち、
アスペルガーの子と一緒に生きているいる個人の意見ですが、わたしが強く言いたいのは、
宝物のような性質をもっている人が、その代償のようにある分野においての能力がかなり低かったとしても、優れた能力の方を活かせる場にその人がおかれ、
不足している部分を「それはダイヤモンドが銅のように腐食しないように当然のことだ」とみなしてあげられるのであれば、会社や社会はいま以上に発展していかれるだろうということです。
彼らは、また、心が綺麗な人が多いように思います。
心が綺麗というのも抽象的というか、定義の不明確な概念ですが、 例えばある実績を褒められると、例えばその実績の内実が自分のおかげでないとわかっていた場合、普通であれば、「まあ、それでもそういうふうに褒めてもらったのだから」と思って口をつぐんで名誉を受ける、という方も多いでしょう。
アスペルガーの人は、「その実績の内実は私の力によるものではありませんので褒められることが理解できません」とはっきり言います。
これは、(わたしはおかしい話だと思いますが)場合によっては「せっかくのお祝いムードをそんなことを行って無碍にしなくても...」と思われてしまうこともあるかもしれません。
でも、多くの人が口をつぐんで自分の名誉にするものを、「そうではない」と言い切るのは、本当に正直じゃないでしょうか。
また、とても権威がある人が、ある人の失敗を公然と批判したとします。
しかしその失敗の理由は、一緒に働いている人であれば、彼だけの責任というよりは様々な要素が混じり合って成立したものだと薄々にしろはっきりにしろ感じているとします。またその批判が、「全体に喝をいれる」的なもので、彼は可哀想な
スケープゴートでもあったことを感じているとします。
しかし多くの人は、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに、「彼はかわいそうだが、この公衆の前でそれを弁明して自分が矢面に立つのもアレだし、いまは黙って、あとで彼を慰めよう」とか考えます。
しかし、
アスペルガーの人はそこで立ち上がって、「しかし、彼が批判されているこのことについては、こういう事情があったし、彼だけがこの場で批判されるのはおかしい」と言ったりします。
どちらも、まあ、わたし自身が実地で体験したことですが、
アスペルガーらしい彼は、そのように振舞うのです。
わたしは、なんてまあ凄いんだろうと思い、自分の自己防衛主義を恥じながら彼を尊敬したものです。
まあ、
アスペルガーは得てして「必要以上なほどに正直」とか言われる性質があるにしても、これは
アスペルガーがどうとかいうより彼個人の美質なのかもしれませんが、しかし、この姿を見てわたしは、「彼の細かい人心の機微を感じ取れないように見える性質の反対として、彼はこういう正直さという美質を頂いているのだなあ」と感心したわけです。
なので、
彼らは、ある分野における研究者的スペシャリストであり、常識に風穴をあける改革者、あるいは勇気ある発言者である一方、外交官やプロジェクトマネージャー、コミュニケーション職ではないので、彼らの不足した部分は、他の人が愛や制度でもっと補ってあげればいいと思うのです。
ADHD的な児童ゆえ、小学校を数ヶ月で退学になり、徹子さんが再入学した学校では、外人の子も、ポリオの子も、
発達障害の子も、みんな一緒に学んでいました。
徹子さんが大きくなって、日本でも類を見ない女優歴60年とかを継続して、
ユニセフ親善大使としても活躍されて、いまいらっしゃるひとつの大きな原因は、
トモエ学園の教育方針があったと思ってます。
トモエ学園では、それぞれが自分のスピードで学習して良いのでしたけど、最後は、「みんな、一緒にやるんだよ」っていうのが哲学だったのです。
ポリオの子は、身体は不自由で体育は大変だったかもしれないけど、とても頭がよかったし、ある子は、頭の速さは遅かったかもしれないけど、集中するといつまでも同じことを継続することができたし、そんなふうに、みんなどこか優れててどこか足らないのです。
だから、誰が上とか下とかではなく、助け合ったり協力して、「みんな一緒に」生きていくのです。
■最後に
とても長くなりました。
また、プロでもない人間が色々言ったりして、アレなところもあるかもしれませんが、お許しいただければと思います。
ともあれ、わたしたちは皆なにか足りないものをもっています。それは、皆そうなんです。でも、だからもっているものを持ち寄ったり、足りないものを補いあったりして、皆で生きていくんですよね。
名作漫画キングダムにおいて、ついに
始皇帝になる政は、人の本質を「光」だと看破しましたね。(完全に読んでるベースの発言ですが)
そして、光は、全ての光の色を混ぜると「白」になるんですよね。
「輝きそのものの色」と言ってもいいかも知れません。
わたしたちは皆、その人だけの色をもつ光であり、多くの光と混じり合い、取り入れ合いながら、至高の輝き、全なる光になることを目指すものではないでしょうか。
最後に、もし読んでいただきディスカッションとかご意見とかくださりたいよ、という方がいらっしゃったらいただけたらと思います。
わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
金子みすず [1903-1929]
ここまでお読みいただき、有難うございました。